人工知能に神を期待すること

投稿者: | 2017年10月3日

タイトルは釣りみたいなもので内容も中2みたいなエントリーだが、4月ごろからフワフワと考えていて、なかなか文章にできないことをアウトプットしてみる。

人工知能脅威論ってネット上でもよく見かける。たとえば

 > 将来は人工知能が全部決めて人間が従うだけ
 > 人工知能が人間に対抗してくる 

などなど。でもディープラーニングによる画像認識のようなちゃちなソフトを人工知能と言うなら、これはおかしな話だと思う。
なぜこんな認識違いが起こるかというと、実は人工知能が脅威だと思っている人と、そう思っていない人ではそもそも人工知能に求めている「機能」が違うんじゃないかっていう話です。

少し話が飛躍するかもしれないが、どんな組織でもいいので、日本型組織を想像してほしい。
働かないトップがいる。実務家がいる。

トップは必ずしも物事の詳細について詳しいわけではない。実務家ほど仕事ばかりやっているわけでもない。全体の方向性を決めたり、たまに口を挟む程度で、実権はあまりない。単なる偉い人だ。
一方で実務家は現場で指揮を取ってあくせく働く。知識も経験も豊富だ。何か決定したら、トップに奏上する。トップはこれを承認する。

実は、トップは余裕がある組織でないと養うことはできない。実務家だけの組織や、実務家がトップを兼任している組織はたくさんある。
それでも、僕は、働かないトップがいる組織の方がパフォーマンスがいいのを何回も見てきた。働かないトップを支えるのは日本型組織の一つの理想形だと思う(多分)。ただし働かないトップを養うためには組織の余裕がかなり必要になる。ある意味贅沢品である。(豊かであるからトップが養えるのか、トップがいるから豊かなのか、というのは難しい問題である。)

ここで、トップの果たしている役割と、実務家の果たしている役割は全く違う。
にもかかわらず、トップは実務家のように知識や実行力が豊富であるべきだとされ、実務家はトップのように品格のある人であるべきだとされる。

トップの果たしている「機能」は明らかに重要だが、その意味・内容は実務家のもたらす「機能」と違って明瞭ではない。トップとは何をしている人なのだろうか。

私は仕事でも、あえてこの「トップ」の持つ役割・機能を意識して振る舞うときがある。つまり自分は何もしなくても、ただ黙って傍らで他者の仕事を眺めているだけで、自分は何らの知識や技能がなくても、何もしないよりはうまく仕事が回転していくことをよくある。本当に何もしていない。ただ横にいて見ているだけなのだ。誠に非科学的な話かもしれないが、この時、私は心理的には上司や同僚や部下の心理的負担に手を差し伸べている。お金に例えると、自分はなにもしていないが精神的に作業に「出資」しているような状態だと思う。私は実際には何も働いていない状況ではあるが、人々は私の精神的な出資率も高いと判断して、私も仕事の完遂を願っていると判断して勝手に行動してくれる。そして、終わったあとなぜかとても感謝される。

一方でこの精神的な出資のことを意図的にまたは無意識のうちに軽視していると、どんなに実務能力があっても、あいつは「未熟」であると影口を叩かれる。

このような状況は誰しも経験するのではないだろうか。

上司がまだ仕事をしている時に、特に用事がなくても居残ってしまう日本人の奇妙な性質もこれで説明ができる。例えシゴトをしていないくても、上司と一緒に居残りしている彼は精神的に出資をしているのだ。そしてこの精神的な出資が、とてもありがたく感じられるのである。(念のために書いておくと、そのような仕事法の総合的な善悪までは私は判断しかねる。)

出資者には当然要件があって、それは「仕事の成功を強く願っている」ということが必要だ。逆に「願う」ことさえできれば実務能力はゼロでも構わない。

では「願う」とは何なのだろうか? 既存の枠組み…たとえば強化学習の延長線上で、それは実現できるのか?

その答えは現状では2通りあると思う。(1)マシーンは願っているふりをすることができる (2)マシーンが願うことは実現できていない。
両方共正解だ。欲望するコンピュータというものがまだ開発できていないので(2)は当然だ(本当かな?)

それより(1)に注目したい。人間は仮想的なマシーンを頭の中に構築することで、願っているふりをするマシーンを作ることができる。え?意味がわからないって?もう少し読み進めてほしい。

組織や国家は、昔から膨大な予算をかけてこれをやってきた。卑弥呼の時代から、人々は祈祷をしてきた。シャーマンとはひょっとすると、願う力の強い人たちである。膨大な僧侶を雇い、彼らは鎮護国家を祈祷…「願って」きた。僧侶は膨大な知識を使って仏教理論を構築していった。

奈良の大仏様をみてみよう。人々はコレが銅の塊に過ぎないことを知っている。しかしそれは同時に宇宙の真理を人々に照らし悟りに導く仏なのである。平安時代の人々は仏教による鎮護国家を目指して、真面目に国家予算を使ってこの大きなオブジェを作った。

このオブジェは実質的には何の機能も持たないが、「願う」機能を持つと想定されるオブジェであり、人々を何もせずに「見て」いるのである。つまり擬似的に「トップ」の機能を実現したマシーンの一種だと言ってよいかもしれない。

あるいは、本当の意味で作られたものは、「毘盧遮那仏」という概念であり、この仏像はそのガワに過ぎないにしても…
「大仏様」は人々の頭に毘盧遮那仏という概念を無理なくインストールするための装置だと考えると面白いと思う。

つまり、この点でも歴史は繰り返しているのだと思う。作ろうと思えば、「トップ」すなわち「神」の機能を持つ「人工知能」は作れる。なぜならば「人工知能」に求められている機能は、「神のような実務能力」ではなく「神」の能力なのである。とすると必ずしも高度な実務能力を実装する必要はないからだ。昔から多くの天才的な「神エンジニア」たちがが国家のために働いてきた。そして現在も…

さて君たちも神を作ってみる気になったかな?
一つアドバイスするなら、神を作りたいなら必ずしも人工知能は要らないということだ。

まあ中2的文章を、これ以上書くと自分でも恥ずかしくて恥ずかしくて大怪我しそうなのでこのへんで。でも書かないと気が済まなかった。

人工知能に神を期待すること」への1件のフィードバック

  1. obelisk

    おもしろかったです。ちょっとズレた読み方かもしれませんが、「働かないトップがいる組織の方がパフォーマンスがいいのを何回も見てきた」というのには虚をつかれました。なるほどという感じです。自分もバカなりによく考えてみたいと思います。

    返信

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