人間と社会環境の相互作用としての病気

投稿者: | 2016年9月6日

 以下、与太話が延々と続くので真面目な人はあまり真に受けないでほしいです。

 強化学習をやっていてふと考えた。病気とは何だろう。

 病気とは何か。そこにはいろいろな視点がある。例えば「正常であるものと正常でないものの境界は人間が決めるから、健康と病気も人間が決める」という考え方がある。なるほど、そう思う時もある。

 「未だかつて存在せず、これからも決して存在しないが、成立してもおかしくなかった病気。」というのがある。これは何かというと、人類には潜在的にそのような病気にかかるのに十分な構造があるけれども、その病気は頻度として極めて稀であるため、結果的に人類の誕生から滅亡まで、誰1人その病気に罹患しなかった(だからこの病気は存在しない)。というものである。この「存在しない病気」を私ちが知ることはないけれども、きっと存在する。ではこの存在しない状態は「病気」と言えるのだろうか?
 そこまで抽象的じゃなくて、ある病気と別の病気、あるいは健康と病気の境界のグレーゾーンについて考えてみる。病態をいくつに分割するかは、虹の色をいくつに分割するかと同じで恣意的なものだ。時代が新しくなるとともに、それまで一つの症候群としてまとまっていた病態が、複数の病気へと分類されていく。私は病気の分類の複雑さは、その病気が本来持つ性質ではなく、人間が今まで経験した症例数と比例しているのではないかと疑っている。人間分類器は似たような状態を一定数経験すると、それを新たに分類したがる性質を持っているからだ。けれども、あまりそういう話は聞いたことがない。やっぱり病気は病気で、最初から存在する、という考え方の方が人気がある。

 「果たしてチンパンジーは病気なのか?」という疑問を考えたことはあるだろうか。これは結構難しい問題で、チンパンジーを人間の病院で検査すれば多くの異常が発見されるだろう。健康診断なら間違いなく赤点だ。しかし、人間の標準からかけ離れているからといって、チンパンジーを「先天的な遺伝子疾患」であると見なすのは、あまりにも可哀想じゃないですか? チンパンジーが人間の病院でいくら病気の診断をもらっても、森林では元気に生活することができる。チンパンジーという状態は森林という環境によく適合しているのである。とすると環境に適合していることを「健康」と言ってよいのだろうか? それも、少し違う気がする。

 ここで、最初の話題に立ち返えろう。病気とは何だろうか。

 結論からいうと、現代社会で問題となっている「病気」は、病気が単独で存在しているのではなく、環境の変化に起因するものが少なくないのではないかと感じる。もう少し丁寧に書くと、太古の時代の環境に最適化されている人間の身体が、現在の環境に対応できていない状態のことを私たちは「病気」として認識しているのではないだろうか。(もちろん全ての病気が…というわけではなくて、現代社会でメジャーな病気が…という意味です。私達は何万世代とチューニングされているのですから、現代においてなお残っている「病気」の意味を考える必要があります。)

 例えば「糖尿病」は飢餓と低血糖に苦しんでいた人類が、飽食の時代に対応できずにいる状態とみることができるかもしれない。長い年月を慢性的な飢餓と低血糖に悩まされていた人類は、高血糖に対応して血糖値を下げるホルモンを1種類しか用意していなかった。そこで現在のような飽食の時代になって高血糖の状態が当たり前になると、簡単に不具合が発生してしまう。人類はインスリンを注射で補充するようになった。食欲も適度に抑えられ、結果的に肥満にならない人が健康的だと見なされるようになった。しかし、これは「飢餓はもう問題ではない」という社会環境が前提にあってはじめて成立する疾患ではないだろうか。

 誤解を恐れずに書くと、やはり糖尿病であることは生存に不利である。だから長い年月の後には糖尿病の人は少しずつ減少していくだろう。それは見方を変えれば、人々の飢餓に対する適応力が失われていくことにもつながるのではないだろうか。そうすると、一体どちらの状態が「健康」なのだろうか。飢饉に強い性質か? それとも飽食に強い性質か? その答えは人間だけ見ていても決まらず、社会環境によって左右される。つまり病気が独立して存在しているのではなく、社会との相互関係のなかで病気の範囲が定義されいる、ということにならないだろうか。

 心筋梗塞や脳梗塞など、動脈硬化と血栓に起因する病気には、血液をサラサラにする抗凝固療法が行われている。血液をサラサラにする薬を飲むことで血液が固まって血管が詰まることを防いでいる。ところが、血液がサラサラにして血を止まりにくいということは、怪我などで出血した際にも血が止まりにくくなるということを意味する。狩猟採集の時代には、恐らく現代とは比較にならないほど怪我が多かっただろう。そのような環境では出血が止まりにくいということは、それだけで生存に不利になると推測される。つまり「怪我による出血はもはや問題ではない」という社会環境のあって、はじめて血液ドロドロという性質が是正されるべき「不健康」な状態として立ちはだかるようになったと考えられるかも知れない。

 人は不老不死を求めてきたけれども、老化に介入する有効な手段は未だにみつからない。そういう意味では、現在行われている治療は、乱暴にまとめればすべて「延命治療」と言えなくもない。そこで私達は何をしているかと言えば、太古の時代に最適化され、新しい環境についていけない生体の性質を、薬剤を投与することで、より生存に有利な方向、あるいは勾配に傾けているのである。そうすることで生体をより現代環境に適した状態に変えて、結果として寿命を伸ばしているのである。そしてその生存に有利な方向・性質というものは、必ずしも人間の身体単体だけで決まる独立した定数ではなく、身体をとりまく社会環境によって大きく変化しうるものらしい。つまり、病気や疾患とは、私達が思っている以上に社会環境に依存する存在であり、環境と人間との相互作用の中に立ち現れてくるものだということになる。おまけに現代社会では社会保障制度が発達して、どの程度まで生体の性質を変化させられるかは、投入できる社会的な医療資源の量にも大きく左右されるようになった。

だとすると病気を治療するとは本当はどういうことなのだろう?

 強化学習を眺めていて、ふと、そんなことを考えた。なんだかもう予想以上に風呂敷を広げすぎたようで、頭が痛くなってきたのでこのへんで。

人間と社会環境の相互作用としての病気」への1件のフィードバック

  1. ピンバック: MF / 星新一の『夢の都市』を思い出した

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